鈍牛のつぶやき


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 8月10日夜明け前の4時15分易老渡登山口の橋を渡った。南アルプス全山縦走のスタートである。光岳(てかりたけ)を目指し、標高差1500mある易老岳をひたすら登る。

 8月10日行程 易老渡(海抜880m)⇒易老岳(海抜2,354m)⇒光岳(海抜2,591m)⇒易老岳⇒茶臼(海抜2,604m)⇒上河内岳(海抜2,803m)⇒南岳⇒聖平小屋午後5時10分着(泊)

 8月11日行程 聖平小屋朝2時発⇒小聖岳(海抜2,662m)⇒前聖岳(海抜2,886m)⇒聖岳(海抜3,013m)⇒兎岳(海抜2,818m)⇒中森山岳(海抜2,807m)⇒大沢岳(海抜2,819m)⇒赤石岳(海抜3,120m)⇒小赤石岳(海抜3,081m)⇒荒川小屋⇒中岳(海抜3,083m)⇒荒川岳(海抜3,141m)⇒中岳午後5時10分着(泊)

 8月12日中岳小屋朝3時出発⇒前岳(海抜3,068m)⇒板屋岳(海抜2,646m)⇒小河内岳(海抜2,801m)⇒烏帽子岳(海抜2,726m)⇒三伏峠(海抜2,426m)⇒本谷山(海抜2,657m)⇒権右衛門山(海抜2,682m)⇒塩見小屋午後1時30分着。塩見小屋夜9時発⇒西峰(海抜3,046m)⇒東峰(海抜3,052m)⇒北俣岳分岐⇒キャンプ場水場で熊の親子に。翌朝4時ごろ熊が谷を降りるまでビーバッグ⇒北荒川岳(海抜2,697m)⇒新蛇抜山(海抜2,667m)⇒安倍荒倉岳⇒熊の平小屋⇒三峰岳(海抜2,999m)⇒間の岳(海抜3189m)⇒西農鳥岳(海抜3,050m)⇒農鳥岳(海抜3,025m)⇒間の岳⇒中白根山(海抜3,055m)⇒北岳山荘13日午後5時20分着(泊)

 8月14日北岳山荘朝3時発⇒北岳(海抜3,193m)⇒中白峰沢の頭(海抜2,841m)⇒左俣大滝(海抜2,246m)⇒両俣小屋⇒野呂川越(海抜2,315m)⇒伊那荒川岳(海抜2,519m)⇒仙塩尾根道4時間⇒大仙丈ケ岳(海抜2,975m)⇒仙丈ケ岳(海抜3,032m)⇒小仙丈ケ岳(海抜2,855m)⇒北沢駒仙小屋午後6時20分着(泊)

 8月15日北沢駒仙小屋朝1時発⇒仙水峠(海抜2,264m)⇒駒津峰(海抜2,750m)⇒甲斐駒ケ岳(海抜2,967m)⇒駒津峰⇒仙水峠⇒栗沢岳(海抜2,714m)⇒アサヨ峰(海抜2,799m)⇒早川尾根小屋(海抜2,463m)⇒広河原峠(海抜2,344m)⇒赤雉沢の頭(海抜2,553m)⇒地蔵岳(海抜2,764m)⇒鳳凰小屋午後5時10分着(泊)

 8月16日鳳凰小屋朝1時発⇒観音岳(海抜2,840m)⇒薬師岳(海抜2,780m)⇒苺平(海抜2,524m)⇒杖立峠(海抜2,177m)⇒夜叉神峠小屋⇒登山口朝8時過ぎ着。南アルプス全山縦走完了

 縦走は単なる登山とは違う。私の場合は修行のためでもあった。北アルプス縦走を肝試し山行だとすれば今回の南アルプス縦走は根性試し山行といえる。一歩一歩上へ上へ、いつかはきっと天辺天辺!私はアルプスに惹かれ、アルプスに憧れ、アルプスを歩いた。自分のことながら決して容易なことではなかった。ただ自分の限界への挑戦をアルプスにぶつけたのは、自分の人生の目標も会社の目標もアルプスと重なるところがあるからである。

 満月の光を受けて地蔵岳はなんとなく孤独に見えた。だが、孤独がゆえにその尊厳、包容力、そして優しさがいっそう輝いているかのように見えた。


 娘との中国旅は12年ぶりだろうか。関空で記念にと思って通りがかりの人にシャッターお願いしたら変な目で見られた。台風が中国海岸を直撃し北京からの飛行機が3時間遅れで到着。北京に着いたときには夜中になり、乗換えの飛行機はとっくに出てしまっていた。ホテルと食事は航空会社が無料で手配してくれたが、実家の延吉で北方交易会が開催されるため次の日の便も席が取れないという。約束の日に遅れたら大変だから、特急列車で北京から瀋陽まで4時間、瀋陽から甥の車で12時間走って何とか間に合った。

 大変な旅立ったので娘がもう二度と中国へ行かないと言うと思ったら、中国での珍しいハプニングに娘は感心、はしゃぎながら楽しんでいた。日本でも台風や大雪で飛行機が飛べなかったり、遅れたりするニュースをよく流しているが、これが中国だと文句と怒りが倍になる。

 帰路も大変で夜中の1時に北京空港に着き、近くのホテルで仮眠を取ったあと、6時には空港に向かう。隣の席に年配の方が座っていたのでお辞儀をして座る。離陸してから気づいたが、隣の方は世界的色彩乾漆彫刻大家のK先生でした。北京オリンピック公園の中心部に「炎の女神」を創ったという。高さ4.5mとなる巨大な作品でギネスブックに載るらしい。中曽根元総理が題を書いたそうだ。漆の技術は中国から日本に伝わっているが、今は日本の方がもっと進んでいるという。洞爺湖サミットの会場にも1.5mの作品を展示するとか。中国芸術研究員の顧問と南京大学美術研究員の顧問をしているので北京と南京にマンションを持っている。私は日本人ですと町中を闊歩しても危ないと思ったことがないという。「炎の女神」の写真を1枚いただいたが、前の部分は盛り盛り上がっているに対し、後ろの分はへっこんでいた。正面は人間が持っている全てのエネルギーを出し切ることをイメージし、後ろは抑圧されている鬱憤をイメージしたと聞き、なるほどさすが世界のK先生と脱帽した。この作品は中国だけでなく全ての国に通用すると思った。今中国はオリンピックを間近に控え、沢山の問題、課題を抱えているが、中国の変貌振りにまた驚かされた。道を歩く人々の目が輝いていた。駅が変わっていた。電車が変わっていた。道路が変わっていた。目にする全てが変わりつつあった。


 6月18日東京出張の帰りに大阪により、姫路からの妻と合流した。中国一の漫才師姜昆さんが来日し、大阪初公演をする。東京公演スポンサーの会社に勤務している友人がわざわざ入場券を送ってくれたので見に行くことにした。

 中国四川大地震の義捐公演だったが、岩手・宮城地震があり、募金の半分は中国四川の被災地に、半分は岩手・宮城被災地に送るという。姜さんは冒頭の挨拶で、四川大地震のとき日本の救助隊、日本の医療チームが一番先に駆けつけてくれたことに心より御礼を申し上げますと述べた。日本で大阪と東京だけの公演だから募金の金額は多くないかもしれないが、半分を日本の被災地に送るという公演主旨になにか胸につんと来るものがあった。

 日本に住んでいる華僑・華人から中国大使館経由で四川被災地に送った義捐金は11億円以上になるという。アルバイトをして学費と生活費を稼ぐ留学生達も我先にと義捐金を送った。こんな留学生がいる限り、中国は、日中関係はだんだんよくなっていくに違いないと確信する。

 日本のものまねタレントコロッケさんが駆けつけてムードを盛り上げてくれた。20年ぶりとなる姜さんの漫才を心行くまでとは程遠かったが、いつの間にか陶酔されている自分があった。 姜さんお疲れ様!姜さんありがとう!


 一昨日の日曜日は「父の日」。

 先月の「母の日」には亡くなった母親が思い出され、目の前がかすんでいた。しかし、正直なところ、「父の日」に亡くなった父親の面影はあまり浮ばない。これは決して一日中山歩きをしたからではないと思う。

 妻が行きつけのフランス料理屋に予約を入れてくれたので、赤ワインにフルコースを楽しんで帰った。妙なことに「父の日」なのに店にはカーネーション一色に飾られていた。「父の日」にふさわしい花がないか、それとも父の日を祝ってくれる母親方のためなのか妙な気分になる。でも最後に「お父さんありがとう!」のケーキが出たときにはちょっとうれしかった。少なくともこの世の中に私の存在に「ありがとう」といってくれる人が一人はいると思うとほっとしてきた。

 家に帰ると京都にいる娘から作務衣が届いていた。なかなか気に入ったものだ。「お父さんいつもありがとう!これからも元気で、お母さんと仲良しなお父さんでいてください」というメッセージが添えてあった。私の存在を「ありがとう」と思う人がもう一人いると喜んだのもつかの間。

 作務衣といえば禅の心。いつも短気でいるお父さん、心にすこしゆとりを持ったほうがいいですよと諭された気分だ。と思う瞬間次の「お母さんと仲良しなお父さんでいてください」が気になってならない。今もよく夫婦喧嘩をするが、昔娘の前でくだらないことでよく喧嘩をしたものだ。短気な父、母さんとよく喧嘩をする父。因みに去年の「父の日」に妻からはアコーディオンを、娘からは手作りの日めくりカレンダーをもらったが、その1日目になんと「短気は損気」と書いてぷんぷん怒っている私の似顔絵が書いてあった。娘に諭される自分が情けなく思われたが、心から娘に「ありがとう!」と言いたかった。「父の日や 娘(こ)に諭されて 嘆く父」  (木元正均) 




 今日郵便局の帰りに「李家房」という韓国ダイニングに入った。正面にあまり上手な字ではなかったが次の文が書いてあった。『あなたが生まれた時は、まわりの人は笑って、あながた泣いたでしょう。だからあなたが死ぬ時は、あなたが笑って、まわりの人が泣くような人生を送りなさい』。どこかで読んだことのあるような、しかし作者の名が出てこなかった。なかなか味のある言葉だ。帰って分かったがアメリカンネイティブの名言である。

 今年に入って新規オープンした店だそうだが、厨房の旦那さんとホールの奥さんの人柄がなんとなく伝わってくるような気がした。祝福されながらこの世に生まれ、祝福されながらこの世を去ってゆく。私は生まれた時は祝されされなかったが、死ぬときは祝福されたいと願う。店を去るときそう思っている自分に気づいた。今日の冷麺は妙においしかった。


 私は山が好きである。むやみに山がすきなのだ。山には感動がある。同じ山でもルートを改え視点を換えると違う感動を与えてくれる。男のような険しい山、女のような優しい山、それぞれの魅力がそれぞれの感動を生み出し、その感動は決して優劣をつけたり、お互いに替えられたりするものではない。ヒヤッとする時も結構あるが、これを山と自分を見つめ直すチャンスに変え、ただ家に無事帰ることを願うのみ。

 日本の百名山と海抜3千メートル以上の山もあと一息で踏破できる。それからは海外の山だ。とにかく、いつも山のパワーと新鮮な空気で私の軟弱な心と汚れた血液を代え、私を原点と初心に返るように促す山が大好きなのだ。

 中国四川大地震から後1週間で1ヶ月になる。各メディアからの被災数字が大きく変わるたびに胸が痛くなる。13年前阪神大震災で初めて地震の怖さを目の当たりにした。神戸で3階に住んでいた中国からの知人夫妻は助かったのだが、1階と2階に住んでいた人は全員なくなった。大自然の前での人間の無力さを改めて思い知らされた。
 
 今から32年前中国北京に近い唐山市で大地震があり、24万人が亡くなった。その被害も大きかったが、今は立派な都市に生まれ変わっている。阪神地区も今は震災当時の無残な光景を想像できないくらい元の姿に戻っている。

 中国は、中国四川地区は今未曾有の試練に直面している。三国志の蜀の国にあたる地域である。『蜀の道は天に登るより難しい』と昔の文人達がよく詠っていた。今テレビでは市街地の映像ばかり流れているが、山村地区の被災も想像を絶すると思う。中国は「衆志成城 抗震救災」(一致団結して震災を克服する)「一方有難八方支援」(一方に困難あれば八方から支援する)をスローガンに、被災地と国全体が一団となって救済に当たっている。都会の若者達の献血を争う長蛇の列、全国津々浦々からの義捐金者名簿の掲示板をみるたびに胸が熱くなる。日本からも、日本人からも、世界の多くの国からも沢山の支援物資と義捐金が送られている。この熱い声援を受け被災地の皆さんが一日も早く立ち直ることを、廃墟になっている被災地域が一日も早く生まれ変わることを願ってやまない。合掌。(木元正均)

 インドは人口大国だけでなく牛の大国でもある。ヒンズー教では、牛を聖なるものとし、牛肉を食べるのを禁じている。2億頭近くの聖牛がただ遊んでいるように見えるが、犂を引いたり、乳を与えてくれたりもする。案外知られていないが、インドではこの聖牛の糞が結構役立っている。土と混ぜて建材に利用されるのだ。
 
 案外知られていないといえば、日本語の輸出である。「寿司」、「照り焼き」などは今英語圏でもそのまま使われているようだが、主な輸出先はなんと言っても中国、韓国である。「文明・教育・民主・鉛筆」など多くの言葉を中国は日本から輸入している。中国語で発音されるから中国人には輸入品意識がないが、紛れもない日本製である。韓国でも日常生活でよく「政府・うどん・押入れ・手続き」などを使うが、これらの言葉も日本製である。もちろんその逆の場合が多い。漢字熟語のほとんどは中国からきているし、島・熊・奈良・腹ぺこ」などは朝鮮半島からきている。
 
 牛肉、乳製品などの輸出入には物と金の交流がメインで、トラブルや摩擦がつき物である。これに対し言葉の交流は無代価で役立つことだけを考える。その意義は物々交換で築かれた交流関係より遥かに重みがあると思う。今「ブックロード」という言葉が流行っているが、これはシルクロードを意識しての言葉だと思う。遣隋使、遣唐使達は沢山の本を背負って日本へ戻ってきたという。また、明治維新後多くの中国人留学生が新世界や新思想を紹介した本を日本から中国へ持って帰ったものである。もちろん船があってこその話だが、この海のルートを「ブックロード」と言うからにはなかなか絶妙なものである。(木元正均)    


 鈍牛のことを中国語では「ボンニュ笨牛」という。どちらもあほのようなものの意味である。ニューヨークウォール街のシンボルである雄牛ブロンド像は株式を売買する証券マンのマスコットで、幸運をもたらすと考えられている。幾度となくなでられ、その鼻先は白くなっている。株とは無縁の貧乏な学生時代であったが、その迫力に感動せずにはいられず、つい私もなでさせてもらったものである。知人のM氏から菅原道真公と牛との縁の話を聞いた。「東風吹かば ・・・」の名句で梅と道真公との縁は知っていたが、牛ととは。昔の資料を調べてみたり、天満縁の神社を回ってみたりしたら感動の連続であった。驚いたことに牛をなでると賢くなるという。

 私はいつも自分は普通の中国人よりも、日本人よりもずっと幸せだと思っている。普通の中国人には想像もつかない程経済大国の恩恵を受けている。また、中国では飢えと寒さにさいなまされた「大躍進」時代、精神的に追い詰められた文化大革命を体験しているので普通の日本人にはなんでもないことが、私には天国からのプレゼントだったりするのである。私は本当にラッキで幸せな人間なのだ。感謝。(木元正均)


 2年前日本百名山の一つである宮ノ浦岳に登るため屋久島へ行ってきた。その前の年「三河湾100キロ歩け歩けチャリティー大会」で一緒にゴールインした名古屋のOさんとTさんが誘ってくれたので同行させてもらった。
 
 一日目は縄文杉参りをした。縄文杉はいまやすっかり屋久島の「顔」になっている。7,200年も生き続けている事実を思うとその悠久の時間に身震いをしてしまう。わくわくしながら最後の階段を登ると、目の前に一本の巨樹が忽然と現れた。他の杉とは別格の、重厚で荘厳な雰囲気にたちまち圧倒され思わず帽子を脱ぎ深く一礼する。人間たかが百歳と思うと目の前の巨樹が無限大に大きくなり、その前に立っている自分が益々小さく見えてきた。つまらないことで夫婦けんかをしたり、いつも周りの人に自分を大きく見せようとしたりする自分が情けなくてたまらなかった。これまで歩んできた道を反省せずにはいられなかった。
 
 1,000歳にならないと屋久杉と言わないそうだ。例え900年の杉でも成人式を挙げていないから小杉だという。4,000年の大王杉、3,000年の紀元杉など屋久杉が生き残るには、環境が一番大事らしい。今平気で親が子を殺したり、子が親を刺したりする現状を屋久杉はどう見ているだろうか。当事者だけのせいにしてすむものだろうか。
 
 帰りにわざわざ知覧特攻平和記念館に寄った。軍国主義的で戦争美化の過激な文句もあったが、なぜ17歳の命を犠牲にしなければならなったかと思うと胸が重くなった。命の尊さと生きる原点を教えてくれた今回の旅に、そしてOさんとTさんに感謝また感謝しながら家路についた。(木元 正均)

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